隔離水槽のお魚

就職後にADHDと診断されたお魚の備忘録です。

歪みを自覚しつつある話


居の片付けをしました。

といっても、わたしの家ではありません。
いもうとが大学進学にともなって借りたアパートに、数日間お邪魔していたのです。
実家からいもうとのアパートまで、車でおよそ6時間。あまりに気候が違う所なので、正直なところ、ちょっとびっくりしてしまいました。

いもうとは引っ越す前から、寂しい、ひとりでやっていける気がしない、と言い続けていました。
彼女があまりに何度もそう言うので、大学の入学式の日に親がこちらへ来て、わたしを連れて実家に戻るまでの数日間、新居で一緒に過ごすことにしたのです。

部屋をあらかた片付けたのち、2人で知らない町のスーパーマーケットの場所を調べ、ドラッグストアの場所を調べ、歩いて買い出しに行き、イオンモールの場所を調べ、100円ショップの場所を調べ、靴屋さんの場所を調べ(実家と比べて降水量がヤバい土地だったので1日目にして「生活するのにレインブーツが要る」という意見で一致した)、最寄り駅までの経路を調べ、バス停の場所を調べ、買い出しに行き、ユニットバスの排水溝のバラし方を調べ、封水筒の外し方を調べ、防カビ燻煙材を焚き、また買い出しに行き、……

2日間がんばりましたが、3日目、わたしは疲れきってしまって起きられませんでした。
目が覚めると昼前で、いもうとはちょうど部屋に帰ってきたところのようでした。彼女は朝起きてゴミ出しをし、それから学校に学生証をもらいに行ってきたとのことで、うーん偉いなあ……と言ったきりわたしは二度寝。そのまま寝袋でもぞもぞしているうちに、いもうとはごはんを食べ、皿を洗い、お風呂を掃除し、トイレを掃除し、除湿器に溜まった水を捨てていて、不謹慎ながら、て、定型発達~!と思いました。
わたしも一人暮らしをしていたことがありますが、そんなに粛々とタスクを片付けられたことはありません。いもうと、偉すぎる。

いもうとは、わたしと全く違った人間です……当たり前のことですが、何というか、同じ家で同じ両親に育てられた子供でも、このように違った育ちかたをするのだな、とここ数日しきりに考えてしまいました。
いもうとには反抗期らしい反抗期はなかったように見え、父も母も大好きだと公言し、実際とても仲良しです。

彼女と同い年だった頃のわたしは、とにかく家を出たくて出たくてたまらず、そのためだけに家から離れた大学を受験したと言っても過言ではないのに。


さい頃から、叱られると全く言葉が出てこなくなる子供でした。
何か言わないと分からないでしょ!と余計怒られても、何を言っていいのか、何を言えば自分の中にあるものが伝わるのかわかりませんでした。
たまに頑張って口を開いても、小さい頃にそれを真摯に聞いてもらったような記憶は残念ながらありません。
それでも小学3年生くらいのときには「しゃべれないので頑張って手紙を書く」みたいなことをした覚えもありますが、何も言わなくても怒られるし、何か言っても怒られるんだな、というのが、わりと早い時期にもう学習されていたような気がします。

人生で母親との関係が最も悪化したのは、高校生の3年間です。
夜ふかし・宿題未提出・勉強しない・登校拒否・深夜に暴食などしまくるわたしを母は叱り続け、叱られるとわたしは完全にフリーズしてしまい(母には「母の言葉を完全無視する反抗心丸出しの最悪な子供」に見えていたようです)、返事くらいしたらどうなの!?と余計に叱られました。
夜ふかししていつまでも部屋に電気がついていると、同居の祖母が「あの子はおかしいんじゃないか」などと母に言うらしく、母は「おばあちゃんにあなたのことを言われると頭が痛くなってくる(比喩的表現ではなく、本当に)」とわたしに言いました。そのうちにはわたしを叱ると具合が悪くなる、というところまで母は追い詰められました。母はふらついて座り込むような体勢になりながらわたしを叱り、わたしはいよいよどうしたらいいのか分からず、返事もできずに背を向けたままそれを聞き続けて、余計に母を怒らせていました。

わたしはアトピー持ちなのですが、母がヒートアップしてくると必ず無意識に首や腕をがりがり掻いてしまうのをやめられませんでした。「母親への当て付けだ」と泣かれても、そうじゃないんだよ、と思いながら止めることも弁明することもできず、母はますます怒り、肌はますますボロボロになりました。
母はわたしの肌を象のようにざらざらだ、と言い、それが長いあいだ忘れられませんでした。
嗜癖的掻破行動」といって、ストレスがかかると無意識に体を掻いてしまう癖がアトピー患者にみられることがあると知ったのは、大学に進学して家を離れた後のことでした。

母に言われ、まだ忘れられない言葉がいくつもあります。
「象みたいな肌」とか、ヘアアイロンで前髪を直しているときに言われた「前髪を気にする前にそのボロボロの肌を気にすれば」など、アトピーのことを言われたのは、その後長いことわたしに「しゃれた格好をすること」を躊躇わせました。
大学2年ごろまでわたしは長袖を着ないと外に出ることができず、ユニクロのパーカーを10着以上持っていました。真夏でも重ね着をしているわたしを見て「暑苦しい、季節感がない、ダサい」と陰で言う人がいるのは知っていましたが、どうにもなりませんでした。化粧も、興味はあっても、なかなか手を出すことができませんでした。
「お前は娘を育てるのに失敗したねとおじいちゃん(わたしから見て母方の祖父)に言われた」と母から聞いたとき、そっか、わたしは失敗作なんだなあ、と思いました。
なにかがずしんと心に乗っかったような重さがあり、それは今も変わらずに存在しています。
「親が稼いだお金をどぶに捨てて」、これは某通信講座の教材を全く消化できずにいて、何度も何度も言われました。こどもちゃれんじのときから高校に上がるまでやっていたのに、赤ペン先生、結局数えるほどしか提出できなかった……。
のちに母には「あなたには合わない方法だったけれど、勉強を何もやっていないわけじゃないというお母さん自身の安心感のために続けさせてしまった、ごめんね」と謝られましたが、謝らなくてはいけないのはどう考えてもわたしの方ですね。
人のお金をどぶに捨てる、という言葉はかなり鋭く心に残り、私は未だに、誰かにお金を出してもらうことに恐怖を感じます。彼氏と出掛けるなどしたときも毎回割り勘か、可能であればこちらの支出が多くなるように細工しています。

こかの時点までは、叱り続ける母のことが間違いなく嫌いでした。呪詛のようなものをノートに書きなぐったりした記憶があり、これは間違いないはずです。
でも、時期ははっきりしませんが、どこかの時点で母のことが嫌いではなくなり、その代わりに「罪悪感のようなもの」が、わたしの中でぐんぐん大きくなりました。

母をノイローゼにしてしまった。
母の体調が悪いのはわたしを叱るせい、叱られるようなわたしのせいだ。わたしのせいで、祖母(母から見れば姑)との関係も悪くなる一方だ。母はますます具合が悪そうだし、白髪もどんどん増えている。このまま母が病気になったらどうしよう。わたしは母の寿命を縮めているに違いない。母がわたしより早く死んでしまったらどうしよう。わたしのせいで父から妻を、弟と妹から母親を奪ってしまったらどうしよう。わたしは家族をめちゃくちゃにしている。今わたしが死んで、わたしが本来持っていた寿命を母にあげられるのだったら、すぐにでもあげたい。

どこに転換点があったのか本当に思い出せないのですが、家を出る前にはまちがいなくこんなことを考えていた覚えがあります。

2階の自室から階段を降りかけて、階下から母と弟や妹が楽しそうに話している声が聞こえると、もうそのまま足が止まってしまって下には降りられませんでした。
涙が出てきて、泣きながらこっそり部屋に戻り、どうしていいか分からなくなって、ひたすら布団を殴ったりすることが数えきれないほどありました。

何も言われていないときでも、ため息や足音を聞いて、ああ、わたしは邪魔な存在だ、早くいなくならなければ、と勝手に落ち込むようになりました。
「穀潰し」というような言葉がいつも頭にまとわりついていて、突然勝手に涙が出るようなことが頻繁にありました。

そういうわけで家を出たい、というか出なければいけない、とわたしは思っていたのですが。
しかし、実際に家を出て気持ちが軽くなったかというと、全くそんなことはありませんでした。「親のお金をどぶにすてて」下宿している、公立にも受かっていたのに、私立の学校に高いお金を払わせている(これは親の希望も聞いた結果ではありますが)、と、自分を責めながら、しかしアルバイトで完全に自活するほどの体力もなく、結局4年間、親に甘えていたのです。親から不在着信があっても折り返す覚悟を決めるのが3日後、とか、親からの電話に出るとたとえ外でもところかまわず涙ぐんでしまって必死に顔を隠していた、みたいなことばかり覚えています。大学生活はこれまでの人生で文句なしに一番、楽しかったですけどね。

の気持ちは、一人暮らしをし、大学を卒業してまた実家に戻ってきたわたしの中に、まだあるのです。
家にいてはいけなかったのに。就活を始めたころ、両親はわたしに戻ってきてほしいようなことを言い、わたしは結局、戻ってしまいました。

認知の歪みという言葉は知っています。
心がしんどく、何かが間違っているのは確かだと思います。
どこかでわたしは自分の気持ちを間違えてきてしまっていると思うのですが、いつ何を間違えて、どこが歪んでいるのか、それはまだちゃんと把握しきれていないのです。

今からでも家を出たいと思う自分と、家にいたいと思う自分の間に、家にいてほしいという親の願いを叶えたい自分、がいます。

今、わたしは母のことが好きですが、その気持ちの中に罪悪感がどれだけ混ざっているのか、自分ではよく分かりません。

「罪滅ぼしをしたい」という気持ちがあり、「親に応えたい」気持ちがあり、わたしは母が公務員なんていいんじゃないの、と何となく言ったとおりに公務員になりました。
ろくに勉強しなかったのでダメ元だったにも関わらず筆記試験に受かってしまった一次合格発表の日、唯一考えたのが「今度こそ、母の望むとおりに上手くやれるかもしれない」だけだったことをよく覚えています。過集中で"マクる"のは大得意なので、そこから先はまあそんな感じでした(借〇玉氏の本を読み、うわっ冒頭部分まんま自分じゃん、と思ったわたしです)。

結局、今わたしは仕事を休んでいます。
やっぱりだめだったなあ、と思う毎日です。

この、いいことはまぐれ、悪いことが起きるとやっぱりだめだと思う、という思考、まさに認知の歪みらしいですね。少しずつ勉強しているところです。認知行動療法の本も読んだりしています。

勉強し始めたところにいもうとの新生活を覗き見る機会があったもので、いろいろと考えてしまいました。
長々と書き出してみたら、あっこれはきっと軌道修正するべき思考だな、みたいなものもたくさん見つけました。
先は長そうですね、でも、ぼちぼちやっていこうな。