隔離水槽のお魚

就職後にADHDと診断されたお魚の備忘録です。

過集中に対する妨害工作の話



近、ものすごく凄いことがありました。

30分くらいでお風呂から出られるようになったんです。


は?と思われる方も多いかとは思いますが、わたしにとってはまさに快挙。

普段の入浴は2時間くらいが標準タイム、のんびりしてると3時間なんてこともザラにあります。
長風呂の原因は、考え事をしてしまうこと。そして勝因は、「考え事ができないように脳みそを妨害し続ける」ことでした。

 

底無し沼のような考え事にずぶずぶ嵌まって身動きがとれなくなること、ありませんか?わたしはあります。

身動きがとれなくなるというのは比喩ではなく、文字通りの意味です。
会話可能な他の人と一緒にいるときなら、言葉のやりとりによって簡単に現実へ戻ってくることができますが、一人でいるときにはもうどうにもなりません。


日常的にたいへん困るのがお風呂。
髪を洗おうとシャワーを浴び始めてすぐに意識が思考の向こう側へ飛んでいってしまい、そのまま打たせ湯のような体勢で1時間も2時間もフリーズしていたりするのです。

中学か高校生くらいの頃からこういう経験はあり、しかしそう頻繁にあることではなかった覚えがあります。
今ではお風呂に入るとほぼ必ずフリーズするので、入るのが面倒くさいなと感じる気持ちが飛躍的に大きくなってしまいました。
いつもなかなか入浴に向かえないのは、この心理的負担もかなり大きいんだろうなと思っています。

 

ころで、免許を取ってから一度だけ大きめの事故をやってしまったことがあるのですが、それもやっぱり考え事が原因でした。


音の出ていないイヤホンをつけて、考え事をしながら、あまり通ったことがなくて慣れていない道を一人で運転していたときです。何かの拍子に、頭のなかがその考え事に大部分を占められてしまったんですよね。


突然、自分が座っている運転席の扉のところに右から車が突っ込んできて、わたしはその衝撃で助手席側に倒れ込みながら、運転席側の窓ガラスが粉々になってきらきらと車内を舞うのを見たことを鮮明に覚えています。反動で大きく曲がった車は左後方席の扉を電柱にめり込ませて止まり、車は左右から潰されたような形になりました。もちろん全損、廃車です。


ガラスがなくなった運転席の扉は開かず、助手席がわの扉から車外に出て、わたしはそこで初めて「ここは交差点の中だったんだ」と気付きました。
あとから車載のドライブレコーダーの録画を見直して、目の前の信号が赤だったことを知りました。
わたしは赤信号に気付かず、右から来る車に気付かず、減速もほとんどせずに交差点の真ん中に突っ込んだらしいのですが、ぶつかるその瞬間まで意識がどこかにお散歩しに行ってしまっていたのです。

このときはとにかく目の前のものが全く見えていなかったことが衝撃で、本当に自分で自分が信じられずに恐ろしかったです。
考えていたのは「早く寿命こないかなあ」とか限りなくネガティブなことだったくせに、本当に命の危機に晒されると怖いものなのだと思いました。

 

車がぺっちゃんこになったわりには、わたしも、それから幸運なことにぶつかった相手のかたも、拍子抜けするほど無傷でした。知り合いの修理工場に車を引き揚げてもらった際、「車がこんななのに、あなたはどこも怪我しなかったの?」と驚かれたことを覚えています。
事故から1年と少しが経ち、あいかわらず長生きしたいとはあまり思えませんが、事故はヤバい、事故は絶対ダメだ、ということは心に刻みました。
それ以来、自損も含めて事故は起こしていません。

 

今、ひとりで車を運転するときには、必ず歌を歌います。
いつかヨーロッパのほうの海難事故のニュースで見た、10時間も海を漂ったのち救助された女性のインタビューで、彼女が「眠ったら死ぬと思い、眠らないように歌を歌い続けていた」と言っていたからです。
そうか、歌っていたら寝ないのか、と思ったわたしは運転中眠くなったときに歌うようになったのですが、そのうちに、どうも「歌うと運転がしやすい」という謎のラッキー現象が起き始めました。そうして次第に、運転中はほぼ必ず歌うようになっていったのでした。どうやらこれが、安全運転に関係しているようなのです。

 

うして歌うと運転しやすいのでしょうか。


あくまでも印象ですが、わたしにとって歌を歌うことと、目から入ってくる情報(信号や標識、前の車のブレーキランプが点灯したぞ、とか)は、お互いに干渉しません。

わたしは歌を歌いながら信号の色が変わるのに気付くことができ、歌いながらセンターラインを割らずに車を走らせることができ、もっと言えば歌いながらふんわりアクセル・ふんわりブレーキを意識して、同乗者と環境にやさしい運転を心がけることもできます。


一方で考え事というのは、熱中すればするほど「感覚が内側に向かっていく」もののような気がします。

どっぷり入り込んでしまうと、見えているのも聞こえているのも現実ではなくて脳内で上映されている記憶、みたいな状態になりかねません。これでは当然、運転などの動作に支障が出ます。しかも実際に事故を起こした時のように、自覚しないままその状態に嵌まる可能性が少なくない。
以前の自分はこんなヤバい状態に気付かないで鉄の凶器を走らせていたのかと思うと、かなり恐ろしい気持ちになってきました。

 

これって、考え事にのめり込んで過集中のような感じになっているんじゃないかと思うのですが、その集中を上手いこと邪魔するのが「歌を歌うこと」という動作みたいなのです。

歌っている間は、余計な考え事をしないでいられる!

これに尽きます。
歌うと、運転中に意識だけがどこかに飛んでいってしまうということがないのです。

 

わたしはだいたい日本語ベースで考え事をしていて、そこに歌詞がダブると考え事の方は妨害されて形をなさない。

分かってしまえば当たり前のことでしかありません。
でもこれに気づいてからは、もう歌なしで運転するのは助手席のだれかと話をしているときだけになりました。ただ、会話は歌よりもかなり効果が弱いので、なるべくならずっと歌っていたい気持ちがありますし、話し相手がいるときでも、話が途切れれば小声で歌いだします。

基本的に家族しか同乗しないのでまあいいかな、という感じです。

 

々と運転の話を書きましたが、話をお風呂に戻します。

要はこれを入浴中に行うことを思い付いただけです。


歌詞を完全に覚えていて気持ちよく歌うことができる歌を7曲、30分ほどのプレイリストにして、浴室に持ち込んで再生しながら延々歌うのです。
はじめは音源なしで歌うことを試しましたが、間奏などイントロ部分を鼻歌しているときにあやふやになってそのままフェードアウト、即思考の海に投げ出されて1時間くらい漂流する羽目になったので諦めました。
ひどい近眼で入浴中に時計など見られないので(これも長風呂の原因のひとつになっていた気がします)、プレイリストが1周したら30分経ったと感覚的に分かるのもよかったです。


えてみれば、そういえば別の場面でも、音楽で脳を誘導していたことがあるなあと思い出しました。

大学時代のことです。
たいへん便利なことに、わたしはいわゆる「困りごととしてではない、ポジティブな過集中(人によっては超集中とか呼ぶ場合もありますかね)」の状態に、かなりの確率で自分を突入させる方法を持っていたんですよね。

 

文系だったからか、学期末に行う試験の代わりにレポート課題が課される講義というのがかなりの割合でありました。教室に行ってテストを受けるよりも、レポートを書いて提出する講義の方がずっと多かったくらいの印象です。

ADHDの方は高確率で身に覚えがあるんじゃないかと思いますが、提出課題に手をつけようかなという気持ちが一番高まるのは締め切り前日の夜中ですね。

例に漏れずわたしもそうだったのですが、それでもレポートなど書き物の課題はびっくりするほど上手く回っていたんです。丑三つ時くらいから書き始めて朝早くにフィニッシュ、そのまま大学に提出しに行き、帰宅してから爆睡する……この完璧な流れが入学後かなり早い時期に確立されました。

 

当時、レポートや論文を書くにあたっては、かならずお供が必要でした。
「日本語の歌詞が含まれていない音楽」です。
多くは映画やゲームのサウンドトラック、たまにクラシック、まれに耳セレブなどの環境音。


外が静かな夜中に、まずカフェインを流し込み、イヤホンは使わずにスピーカーで控えめに音楽をかけ、課題に向かいます。そうして書き始めてしばらくすると、自分のまわりに膜が張ったように音のボリュームが小さくなり、やがてまったく聞こえなくなります。

音楽が聞こえないことに気づくと、わたしはいま集中しているぞ、とはっきり自覚できて、その自覚がわたし自身をさらにブーストしてくれて、「筆が乗る」というあの爽快感がやって来る、ちょっとハイになるような感覚がたしかにありました。

 

おそらくは「外界からの刺激を遮断するほど集中できている」状態がかなり気持ちよく、音楽が消える体験によってそれをはっきりと知覚でき、またそれを繰り返すことで逆に音楽がその集中への入り口になってくれていたんですね。
「音楽を聞かないために音楽をかける」という謎の状態でしたが、その音楽がなかったらちゃんと卒業していたかも怪しいのです。同期たちが夏休み前から準備していた卒論を、締め切り前の2週間くらいで書きなぐってしまった人間なので……。

 

もかく、当時のわたしも、脳をなんとか働かせるために音楽を利用していました。歌詞が聞こえると耳がそれを追いかけてしまって集中できないので、かならず「歌詞を拾えない」音楽を使っていたわけです。
思い返すと本当に、現在と逆の用途のために、逆の選曲をしている……。これ、ちゃんと自覚してよく考えていれば、もっと早く長風呂問題の解決にたどり着けたのかもしれません。

 

しかしまあ、脳をジャミングすることでお風呂を手早く済ませられる上に、妨害電波として使うのはぜんぶ自分の好きな歌なので普通にめちゃくちゃ楽しいし、家族がうるさい思いをしているかもしれないこと以外はいいことずくめですね。
親やきょうだいに騒音被害が出てないか確認しながら、今後もうまくやっていければいいな~と思います!